我慢から学んだ事

このエントリでは久しぶりに日記のような記事を書こうと思う。なので、いつもの技術エントリはですます調だが今日は日記調に適当な感じでいこうと思う。

自分は、他人への配慮を踏まえた上で思った事は言うべきだと考えている人間だし、それを我慢して空気を読んだり間違っていると思っているのにその意見に迎合するのは好きではない。もちろん、自分の言った事が間違っていたら、それを認め謝らないといけない。僕はそういう間違いを恐れない議論が必要だと考えている人間だ。

しかし、そうやって生きてきてはいるが、「我慢する事」は自分にとって非常に大事だと思っている。いつでもなんでもどんな時でも、言いたい事を言うのも良いのだが、我慢することで得られる事もあるという事を、年末も近いし今日は自分を振り返りつつ書いてみようと思う。

我慢をモチベーションに変える

特に大学4回生で研究しはじめた時や入社1年目はそうだった。「思った事を言わなくちゃいけない」と無理して思っていた時期でもあったので、何かと先生や上司の意見を批判的に見て、揚げ足をとるような内容で自分の意見を発し、それが自分の能力だ・アイデンティティだと言わんばかりに行動していた。しかし、世の中にはそういう隙すらを与えてくれないような人間はいるわけで、例えば教授や有能な上司の発言には隙がなかった。何か発言をすることで自分を保ちたいという気持ちに駆り立てられるが、そんなチャンスはほとんどなく、後から考えると「ああ言えばよかった」という場合はあるものの、やはりインタラクティブに話をしている時はなかなか思いつかなかった。その時僕は、「あー、これが思考力や知識や議論の力の差か…」と落ち込んだ。怒られても言い返す事ができなくて、そういう特定の隙を見せない人間に対して「くっそーくやしーー」と思う日々が続いた。

そんな中、そういう人達の指摘や意見に対して、徐々に言い返す前提ではなくまずは受け入れるという感情が芽生えている事に気づいた。もちろん、怒られたり正しいと思っている事を真っ向から否定されると腹が立つが、その内容はきっとまっとうなのだと、今の自分では気付かない話なのだと、その場ですぐに理解できる内容であれば受け入れるし、理解できなくとも批判箇所を見つけるのではなく、いつかわかるんだとその特定の人達を信じて、自分の気持ちを我慢するようにした。そうやって他人を認める事によって、最初は我慢することもそれなりにストレスだったのが、それも他人を認める事によって和らいでいき、我慢しているという自覚はなくならないものの、「今はわからないがこれが理解できるように、いつかこの人達を超えられるように日々学ぶだけだ」と思えるようになった。技術的に超えたら、「やっぱり違うじゃないですか!」みたいな事も言ってやろうと考えていたと思う。

そこから数年たった後に、ふと自分を振り返ってみると、当時言われてわからなかった事が大抵の場合正しかったと理解できるようになっていたし、その特定の人達に指摘を受ける事もほとんどなくなっていた。むしろ指摘できるようにもなって、いつのまにか技術面や考え方において対等に話せるようになっていた。「やっぱり違うじゃないですか!」を言ってやる、なんて感情は完全に消え去っており、むしろ感謝の感情の方が大きくなっていた。そして、そういう人達との議論から生まれるアイデアは素晴らしいものばかりだ。これは、我慢をモチベーションに変えることで必死で技術を学び、そういうすごい人達の話が理解できるように思想や技術者としての生き方を考えた事によって、結果それが自分の成長を加速させたのではないかと考えている。もちろん、違うかもしれないし、単に特定の人達に迎合しているだけかもしれないが、スキルは上がり視野も広がっている事は確かだった。

ただし、「判断に苦しむ・わからない意見」ではなく、明らかに間違っている意見を「それはおかしい」と発言する姿勢は常に必要だと思う。その発言すら間違っていたとしても。

我慢を強要してはならない

しかし注意しなければならない事がある。それは、もし自分が特定の人達の立場になっていた場合、自分がそうだったからといって他人に我慢を強要してはならない、ということだ。なぜなら、上記で述べた我慢というのは、自ら納得し他人を認める事をきっかけにして自主性から生まれるものだからだ。それを、他人からの強要でやってしまっては、ただただストレスになり、よりそういう他人を認める事ができなくなってしまうように思うし、自分に素直にもなれない。また、仮にそれでストレスは感じなくなってきたし、他人を認められるようになってきたと感じていても、そこに本当に素直な気持ちがあるのか、空気を読み、他人に迎合し、意見を言わない事で平静を装っているだけになってしまっていないかを、改めて見直す必要があるかもしれない。なので、この記事を読んだ方はこの意見を強要されているとは受け取らないで欲しい。

最後に

こういう風にいられたのは、自分のいた環境が良かったんだろうとも今は思う。上述した「特定の人達」が非常に信頼できる方たちだった事も大きな要因の一つだろう。自分を振り返りつつも我慢から学んだ事を書きつづってみて、他人の指摘を受け入れ自分を省みる事ができるようになったと思うが、それでも失ってはいけない大切な感情がある。それは、「悔しさ」だと思う。やはり人間は悔しさをバネに自分を高めている時の力は計り知れないものがある。それは自分との戦いであっても、その中でできない事に対する悔しさをバネに前向きに取り組む事によって自分を大きく成長させることができる、今はそう思っている。しかし、この考えも明日には変わるかもしれない。