昨日の記事が1日で多くの方に見て頂けているようでとてもうれしいです。
今回は元々、今日このタイミングで記事にしたいと思っていた内容があったのでそれを書きたいと思います。僕は去年の9月に会社をやめて、今年の4月から大学院に入学しました。「Linuxエンジニアを目指して入社1年目で役に立ったと思う事を書いた本人が、実はLinuxエンジニアをやめていた事を知ると、昨日のはなんだったの?」と思う人もいるかもし れません。なので、少しタイミングが悪いかもしれませんが、とりあえず書こうと思います。話は小学校までさかのぼるので長くなるかもしれません。暇つぶしに読んでやろうか、ぐらいで読んで頂ければと思います。
大学までの自分
僕は、小学校3年ぐらいから中学受験の勉強を始めました。元々は勉強が大嫌いでしたが、3年上の兄は非常に優秀だったので中学受験をして見事名門中学に入ったのをみて、なんとなく自分も始めました。もちろん、自分の意思というのは少なくて親にやらされるという感じが強かったと思います。これは、親が悪いとかではなく、中学受験はそういうものでした。ただ、自分は勉強が嫌いなのでとにかく大変で、親の隙を見ては問題の答えを見たり手を抜くことばかり考えていました。そういう行動は、もちろん結果に表れて、兄と同じ中学に入ることはできませんでした。子供ながらショックを受けましたが、「まぁ本気出してないし」と思い聞かせていました。
その反動か、中学高校ではほとんど真面目に勉強をせず、学校でもほぼビリの成績でした。その代わりと言ってはなんですが、スポーツが楽しくてクラブに熱中していました。とにかく必死にやりました。そのため、負けた時は非常にショックでしたが、「まぁ、強豪校と比べると練習時間も少ないし、環境が悪いし」と思い聞かせていました。
そして、大学受験になり高校のみんなが京大や東大、医学部を目指していたので、自分もなんとなく同じように目指してみました。もちろん、中途半端な勉強量じゃ受かるはずもなく、浪人しても結局受からずに、みんなは目指していた大学を合格していく中で、自分は中期で受かった大学にいきました。その時も、「まぁこれからはほどほどの大学でほどほどに生活できたらいいや」と思い聞かせていました。
とにかく、自分の中で言い訳を見つけて正当化し、自分を安心させるような人生を送っていました。
大学時代
大学には入学したものの、あまりやることもなく、何か暇つぶしできないかなぁと思って買ったのがパソコンでした。インターネットも盛んになり始めていたので、非常に楽しくて毎日触っていました。ある時、「パソコンの自作がしたい」と思いたって、必死で貯めたバイト代でパソコンを自作しました。Pentium4の2.4AというCPUで、CPUが融けそうなくらい熱くなったのはいい思い出です。そして、使わなくなったPCがもったいないのでどう利用しようか、ということで辿りついたのがサーバ構築でした。そこからは、どんどんサーバに興味を持ち、メールやDNSやWebサーバ等安いパソコンをたくさん買って構築して、プロ グラム等を始めました。下宿していたのですが、部屋は完全にデータセンター状態で、常にエアコンをかけていて、「冬は涼しいからエアコン無しで電気代かからない!」と喜んでいたのを覚えています。
2年生くらいの時には、大学の研究室にメールして 「ネットワークやサーバの研究できますか?」と聞いて、毎年一名ぐらいでそういう研究をしている、と返答をもらっていたので、「大学4年ではこういう研究がしたい」とワクワクしていました。毎日毎日サーバを触り、少しずつ、サーバやプログラミングの知識に関して自信がついてきていました。
「自分、結構すごいんじゃない?」と思い出していました。
運命の出来事
しかし、それが打ちのめされる出来事が起こります。3回生の情報工学実験という授業で、C言語のプログラムの授業がありました。2か月かけてC言語の課題(簡易コンパイラみたいなもの)に取り組み、成果を最後にメールで送るという授業です。 僕は上記のサーバやプログラミングの経験からC言語に自信があったので、その課題を1、2週間で終わらせ、できていない人に教えてあげて助けたりといい気になっていました。
そして、提出後、結果を見ると、僕が教えた人達はみんな合格で、自分だけ不合格になっていました。さらに、この授業は4回生になるための必修の授業なので、同時に留年が確定してしまいます。「え?なんで?意味がわからない」と、送ったメールを確認すると、送るソースを間違っていて、最初の方に作った動かないベータ版のソースを送っていました。その後、PCを持って先生に色々説明しましたが、すでに遅く、留年が決まってしまいました。
この時の落ち込みようは、中学受験、大学受験、とはくらべものにならない程のショックでした。受験の失敗は「勉強が嫌いだからしょうがない」とか、大学受験においては「ほどほどの大学でほどほどの生活でいいや」とか、大学に入るまではとにかく自分ができない事を、言い訳を見つけて正当化していた人生でした。それが、とにかく好きでみんなよりやっていて、自分はサーバに詳しくてLinuxに堪能でプログラムもできるとか、とにかくいい気になっていたけれど、基本的な事から何もかもに油断していました。それが結果として留年になったことは、今までにない絶望感を与えました。
これからどうするか
あまりにもショックでした。4回生でようやく研究ができる、その後もずっと研究していたい、とおぼろげに思ってましたが、それができなくなりました。毎日毎日サーバを触ったりして勉強していたのに。
この時に、「どうやればこのミスを取り返せるのか?」と真剣に考えました。これが、良かったんだと思います。周りのみんなは既に研究を始めています。単位数等は少し多いぐらいにとっていたので、「それだったらサーバやネットワークの会社で働いてみて、企業で実際はどういう事がされているのかを知りたい」と思いました。そして、レンタルサーバでバイトを始めました。
そこでは、自分が知らないようなサーバの技術が沢山あり、非常に勉強になりました。アルバイトを半年程続けている内に、ふと、「このまま就職せずに大学院を目指すべきなのか?」と思うようになりました。「研究していなくても、こんなに色々できるエンジニアが沢山いて、しかもそれらを知らないまま研究をしていって本当に大丈夫か?企業は公開していないだけで、かなり進んでるのではないか?」ということに対して不安を覚えました。まずは、エンジニアとして基本的なスキルを学び、企業内部の見えない現場の運用や開発を知った上で、これから世の中でやるべき研究は何なのかを考え、それから研究するべきじゃないのかと思い出しました。その不安や思いは、バイトすればするほど強くなっていきました。
大学院には行かず企業へ
そこで、業界ではレンタルサーバとして技術力が高いとされる会社に入社しようと心に決めました。しかし、中学受験から大学受験、さらには留年時の授業料等、とにかく働いて稼いだお金を自分のために払ってくれている親に、まずはこの思いを伝えないといけないと思いました。そして、こう言いました。
「今の中途半端な知識で大学院に進んでも、きっとまとまりのない非現実的な研究しかできない。自分はエンジニアとして現場の技術の基礎を3年でとんかく学んでから、大学院に行って研究をしたい。必ず数年後には、この分野の技術は社会から必要とされるし、研究していくにも必要になると思う。」
恐らく、この言葉が人生で初めて自分のやりたい事を自主的に説明した時だと思います。すると、家族は「分かった」と、納得してくれました。
これまでに、相当のお金を自分にかけていたと思います。今、結婚もして家庭を持っているので、授業料や生活費がどれほど負担だったかも想像できます。できれば、世の中でいう大企業に行く事の方が親にとってはうれしいだろうと思います。しかし、理解のある家族は、全てに賛成してくれました。むしろ、「そういう風に自分で考えて進む道を決められるようになったのがうれしい」と言ってくれました。本当にこの時ばかりは、家族に感謝しました。それと同時に非常に申し訳ないとも思いました。いつかはきっと恩返しがしたい、そう心に誓いました。
自分が入社した会社は、新入社員を取っていなかったので、中途採用の枠で「自分は大学生で、新入社員として入社したい」とメールを送ってみました。すると、とても理解のある会社で、きちんと面接をしてくれて、結果、入社することができました。エンジニアとしての新入社員は僕が歴代で初めてだったようです。「家族の理解、さらにはこんなにも理解のある会社で、僕は恵まれているし、とても運がいい」と心から思うようになっていました。それと同時に「この分野ではだれにも負けたくない、本気出してないとか言い訳に過ぎない、みんなの期待に応えるためにも、とにかくやるしかない」と思うようになっていました。
とにかく勉強したので、3回生の後半には前年に落ちた実験も油断することなくきちんとこなして、4回生にあがることができました。そして、ネットワークやサーバの研究を希望して、1名なのに見事当選することができ、4年生では大好きなネットワークなサーバの研究をしました。休み問わず毎日遅くまでやっていたのを覚えています。
社会人になって
そういう気持ちで、社会人1年目を迎え、前回の記事に繋がります。会社にとっては、会社より先を見て仕事に取り組むことには不快を感じるかもしれません。ただ、少なくとも振り返って言えることは、仕事は手を抜いたことはないし、何よりも先を見ることで周りとの比較で後ろ向きな気持ちにならず、常に最高のパフォーマンスを出せるように仕事ができたと思っています。とにかく、今できることをやって、仕事にのめり込んでいきました。そのうちに、大学院に今後行く気持ちや修士に行かずに社会に出た動機等が、次第に薄れ始めていました。
それは、何より会社が居心地が良く、素晴らしい師匠に出会うことができて、同僚や上司にも恵まれていたからだと思います。毎日が楽しくやりがいがあって、自分の技術力がみるみるうちに上がってきているような気もしました。そして3年が過ぎ、自分の立場もそれなりになってきて、プロジェクトも当たり前に任され、どんどん楽しくなってきた時期でした。居心地があまりにも良くなってきていたので、大学院はもういいかなと思う時もありました。しかし、同時に今の現場の運用や開発の基礎を知った上で研究できれば、もっと良い技術が生み出せるのではないかと、ワクワクした気持ちもありました。ここで、大学で留年した事、よりよい研究をするためにこの会社に来た事、それを家族に認めてもらった事、そういった事を思い返している内に、「やっぱり自分は研究がしたい」と改めて思いました。
そして会社をやめて大学院へ
会社を辞めて大学に行くわけなので、収入はかなり減ってしまい、妻の収入に頼るしかありません。妻にそういった事や大学院に行きたい意思を改めて告げると、「何も心配していない」と快諾してもらえました。家族の理解、会社での理解、そして妻の理解、とにかく自分はいつでも周りの人達に恵まれていました。そんな周りの人達の気持ちに応えたいと、より強く思いました。そして、大学時代から決めていた大学の研究室に修士課程に行きたいと一通のメールを送りました。
そして、入試のプロセスでは、自分が会社でやったことや大学時代の研究を説明し、それが成果として認められたため、書類選考や学科試験、口頭試問を経て、なんと修士課程を飛ばして博士課程から入学する事ができました。この大学は、外部に閉鎖的とも言われていますが、全然そんなことは無く、修士にも行っていないどこの誰だか分からない人間の話でも、忙しい中時間を作って親身になって聞いてくれる教授、そして、誠実に成果を評価してくれる大学の教員達、本当に素晴らしい大学だと思いました。研究者を育てる大学とも言われていますが、今後もきっと素晴らしい研究者が生まれるだろうと思います。
合格した時には、大学時代までの言い訳を見つけて自分を正当化していた事を反省し、そして、自信のある分野で留年し、とにかくその失敗を取り戻すために技術を学んだ事、大学院に行かずに会社に行ってとにかくチャンスをものにしようと頑張った事、そういった全てが認められたような気がして、とにかくうれしかったです。それと同時に、高校の友達は10年前の大学受験、大学の友達は4年前の大学院受験には既に立っていたスタートラインに、自分もようやく立てた気がして、やっと追いつくことができたと実感すると共に、これからが最も険しく、長い道のりなんだと身を引き締めたのが、今年の2月頃でした。
今の気持ち
自分がこれまでやってきた事は、決して見本にはならないと思っています。そして、会社をやめて大学院に行く事が良いとも思いません。そうする事が周りを苦しめる事になるかもしれません。自分も不幸になるかもしれません。
しかし、僕が自分のやりたい事を諦めずに突き進めたのは、とにかく周りの人達に恵まれていたからです。自分ひとりの意思だけでは、到底ここまで来ることはできたなかったと思います。理解のある家族の元で育ち、年下の意見をきちんと聞いてくれる素晴らしい会社に入社でき、会社をやめて大学院を行く事にも賛成してくれた妻、自分の成果を誠実に評価してくれた大学、これらが全て揃っていたからこそ、僕は自分が本当にしたいと思える事を変えることなく、そして、それがいつかは報われると信じて、ここまで来られたんだと思っています。これからは、自分のしたい事をとにかくやって、僕が僕であることを見守ってくれた人達の期待に応えたいと強く思っています。
最後に
最後になりますが、この記事を書いた理由は、周りの素晴らしい人達、家族、会社、大学、そして、妻に感謝したかったからです。拙い文章で、うまく伝えられたかは分かりませんが、皆様、本当にありがとうございました。皆様にかけた迷惑や、受け取った期待は決して忘れません。
そして、こんな人間もいるんだと、この長文を読んでくれた皆様が自分のやっている事に自信を持ち、自分の目指すその先に向けて迷わず突き進んで行ってくれたらいいなと思っています。
そして、明日は博士課程の入学式です。
てか大学の仕組みって融通効かなすぎだよね・・・
色々思うことは当時もあったんですが、留年という出来事があったからこそ今があるような気もしています。留年があったからこそ、もう一度初心に戻って物事に取り組み、自分の一番好きな事をとにかくやる、という気持ちになれたんだと今は思います。ぼくの人生で最も大事な出来事だったと思っています。自分を信じてよかったです。