変なことを言うなと思う人もいるかもしれない。
昔から、生命科学において説明が難しいとされている、人間の「意思」。
世界が、人間をミクロレベルから人工的に作り上げるほどの技術力に至ったとしても、そこに人としての「意思」は宿らないと言われている。
「迷い、気まぐれ、なんとなくの行動」
ここには全て、人間の意思が働いている。
しかし、近頃コンピュータに「意識」というか、「人間らしさ」を感じることがある。
大抵は理由のつくコンピュータの不具合。
時として、なぜこの状況で、こんなことになるのかが説明できないことがある。
なぜここで、カーネルのメモリ周りでパニックを起こすの?
とか。
ここで、注意して欲しいのは、それがある人にとって、「人間らしさではなく、論理的に説明できる事象」であるかどうかは問題ではないということ。
ある人間にとって、それが「人間らしく」見えたのであれば、それは「人間らしさ」と思ってかまわないのだ。
もう少し知識のある人間に、その事象がの発生理由を説明できたとしても、少なくとも「人間らしく」見える人間にとっては、それは「人間らしい」のである。
世の中でも、例えば、A君がとった不思議な行動が大抵の人にとっては理由が説明できないような場合でも、仲良い友人であれば「A君のあの行動は、こういう理由があるからなんだよ」と説明できる人がいるとする。
しかし、それはある人にとっては、「なんか理由もなく不思議な行動をとっているなぁ」と認識する。
人のとる行動の理由を理解できる人間、理解できない人間がそれぞれいるが、理解できようが理解できまいが、それは「人間らしさ」そして「人としての意思」が働いていると考えられる。
人間は意思を持って行動をしているのだから。
つまり、コンピュータの動きを人間が「人間らしく」とらえてしまったとき、それはコンピュータの「意思」そのものなのである。
つまり、「意思」というのは、その具体的な内容に意味があるのではなく、外部から「意思をもっているように見える」と認識されることが、「意思」の本質であるように思う。