最近のWEB系本で思うこと

最近、WEBがどう変化していかといったような内容の本をよく読むんだが、さすがに旬の話題だけあって、素晴らしい考えを持っている人から、「んー、本当にWEBのことを分かっているのか」って僕でさえ思うような内容まで様々だ。

たとえば、「WEBの進化に伴い様々な情報を人々が入手できるところから、世界はフラットになってきている」という議論に対しても、「Googleamazonに富が集中してる」とか「Googleの検索結果の上位しかみなくなったり、情報を共有するコミュニティなどが出来上がってくるために、間違った情報を得やすくなったり、情報や人に対する偶然の発見が減る」とか、なんか考えが浅いような気がしてならない。


まず、Googleとamazonをすごく大きな企業と思ってるだけでは、ちょっとWEBのことを理解してないように思える。

Googleとamazonは、完全のWEBというプラットフォームの一部になっていて、もはや「WEBという社会における国」のようなものになっている。
「ロングテールといいながら、結局この2社が富を全てかっさらっているのではないか」と考える人もいるが、全くそうは思わない。

「WEBという社会」に一つの「国」を作り、そこに住む住民に富を与えるということは、当然その一部が国に還元されないと国が成り立っていかないのは当たり前なのではないかと思う。

Googleやamazonという会社が、どれほどまでに強大なものになっているかをもう一度考えてほしいと思った。

さらに個人に対する情報の一極集中に関してもである。

まず最初に言いたいことは、「Googleで情報を簡単に入手できるようになっても、情報を比較検討しないような人はしないし、する人はするだろう。ただそうやって正しい情報を正確に入手するチャンスを得られる人間の数が大幅に増える」ということだ。

一つの大きなコミュニティが作られ、そのコミュニティ同士がまたつながり、そうやってネットワークができていくんだが、そのときに情報が一極集中することなんかWEBが発展する前からあったことで、大多数の意見を正しいと考える人や、全ての意見を聞きその中で思考し自分が導き出すものを正しいと思う人はそれぞれいるが、今の人々が膨大な量の情報を簡単に入手できること自体が、大多数の意見を正しいものとしか思えなかったという人の中からも多くの情報を得ることで、後者のように考える人が増えてくるのではないか、って僕は思えてならないです。

元から後者の人間は、入手できる情報が増えると、より一層その情報を元により緻密な考えを生み出すことができるでしょう。

そういう意味では、これまで情報が少なかった時代から、努力して情報を集め自分で考えることをしてきた人たちにとっては、もっと素晴らしいものを生み出す可能性がでてくるだろうし、情報を得ることができず、テレビで放送されり新聞で述べられていることが全てと思ってきた人たちもより一層、何が正しくて何が間違っているかの質を高めることができるようになるのは間違いないと思う。

その中でも当然求められることとして、Googleの最初に書いてあることだけが正しいと思う、等は褒められた行動でないにしても、新聞やテレビで情報を得る→Googleである程度TOPにでてくる情報を見てそれに付随する情報も確認する、という作業だけでも相対的に見て確実に情報の一極集中は避けられているように思える。

Googleがあっても無くても、情報を比較検討をしない人はしない、する人はする、しかしGoogleとamazonの存在でそうする人の量は増え質も上がってきていることは言うまでもない。

その心配は、新聞やテレビが一切無く、全ての情報をGoogleのみでしか集めることができないといった状況でのみ、生じる危険ではないだろうか。

そういう意味では、こういう内容を書く人はそれこそ今のWEB社会の中に住み着いてしまい、その素晴らしい利便性に溺れてしまい、今までどうだったのかを考えることができなくなっているのではないかと思えてならない。

amazonとGoogleは、Microsoftが一つの世界を作ってしまったように、新しい世界を作ろうとしている企業ということをお忘れ無く。