Googleのような企業が日本から生まれない理由

インターネット革命がおきて、ようやく10年程の月日が流れたが、1980年代に起きた「個人がPCを持つことができる」という”革命“、1990年代に起きた「インターネットで世界中の人達が情報を共有することができる」という”革命“が、大体18年周期で起きてきた。

それぞれを革命とよぶとき、それぞれの革命にその時代のITに関わる人々は強く感動を覚えた。

そして、その18年周期がそろそろやってくる時代になってきた。


そういった革命に対して、ポジティブに思考し、その新たな世界を道具としてではなく、むしろ自分がその世界の中で生きていくといったような感覚で新しい技術に没頭し、世界を大きく変えるような成功をおさめてきた人々がいる。

Microsoft・Appleから始まり、amazonやGoogleといったように、それぞれの革命の時代には必ずといっていい程大成功する企業が存在する。

世界中にそのチャンスはあるはずなのに、PCからインターネットにという分野にかけて、本当に意味で成功してきた企業はアメリカからしかでていない。

では、どうしてアメリカなのか。

かつては、日本という国は世界でも代表的な技術大国として位置付けられ、技術的に大きな成功をおさめてきた。

そして、現在インターネットのインフラでみても、アメリカ以上に技術が発達していて世界でもトップといっても過言ではない程環境は整っているのに、なぜか世界で注目される程の技術や企業がインターネットの世界からあらわれていない。

環境は世界一なのに、なぜその環境で世界一のものが生まれないのだろうか。

そのことについて、少し考えてみた。

まず第一に思いついたのが、アメリカはインターネットを”世界”と見ているのに対し、日本ではそれをまだ”道具”としてしか見ていない所にあると思う。

アメリカではその世界の中に、自分達が住むのだから、その世界をより住みやすい・素晴しいものに変えようとしている。

「世界があっての自分」という意識を持っている。

それに対して日本は、あくまで「自分達はリアルに住んでいて、インターネットは便利な”道具”であり、その道具をいいものにしよう」という感覚でいる。

「インターネットという”世界”における自分という人間」と、「自分という人間がいてインターネットという”道具”がある」という感覚の差が、インターネットに対する根底の感覚という意味でも、考える前堤のところでレベルが違うのではないか、と思えてならない。

もうひとつの理由として思ったのは、日本の企業と大学で優秀とされる人達の雇用の問題だ。

日本で優秀な大学を卒業した生徒は、就職活動をし新卒として有名な大企業に入り、素晴しい環境を与えられその会社を担っていき、終身雇用のように最後までそこで某大な給料をもらって人生を終える。

当然そのなかで、会社としてすばらしいサービスなどを生み出したり、より会社を有名にする人達もいるだろう。

そこに、大きな問題があるように思える。

アメリカでは技術思考の人が多く、本当に優秀な人々は、大学に行ったあとは、自分と同じような素晴しい才能を持った人と切磋琢磨、時には共に、大学に残って研究したり、どこか場所を見つけ自分の好きな研究をひたすらやり続け、いつかはその自分の考え出した研究で「世界を変えてやろう」「この技術でもっと世界をよくしよう」といったような気持ちで新たなものを考え出すための研究に没頭する。

そして、その研究が具体的になってきたときに、それを使いたいという人々があらわれ、会社を作り、その技術が素晴しいものであれば、それは自動的に世界に広がって行き世界を変えていく。

このように、日本で優秀とされる人々は、「自身が豊かな暮らしができる」とか「有名な企業にいく」といったような、自分自身の才能で新しい世界を創造するといったような感覚はあまりなく、大きな企業に就職して、その企業で安定した収入を得て、時にはその企業がよくなるような技術を生み出す、そして何不自由することなく生涯を終えるといったような気持ちでいるように思う。

“個”としての技術を高めようとする気持ちが、アメリカの優秀な人々と比べて、格段に低いのではないか。

“組織”の中で優秀であればいい、ある特定の地球規模で考えると小さな”組織”の中で他と比べて優秀であればいい、というような感覚でいるように思える。

“個”としてひたすら技術を高め、誰よりも優れたものを、世界が変わるような、そのような強い意志を持ち夢を描くような若者が、日本の古くからの企業形態とその時代を生きてきた大人達の影響で少ないように思える。

しかし、少しずつではあるが、本当の技術思考の若者が現われてきているのも事実で、そのような若者は今の日本の企業の仕組みに幻滅し海外へ飛び立つ、といったような事例も増えてきている。

僕は、自分の才能を自分で理解しているつもりで、自分では到底かなわない才能をもっている友達が回りに沢山いる。

もし僕があいつだったら、と考えたとき、自分の能力の低さが本当に悔しくてならない。

自分にその突出した才能があれば、新しいものを考え研究し、その技術を確立することにひたすら没頭するだろう。

しかし、そういった才能の持ち主はみな大企業に入って、若い間は決まりきった内容を誰よりも効率よくやってのけ、年をとってようやく自分の好きなことができるようになったとき、自分のその悩は退化し、柔軟にものを考えることができず、ただひたすら増え続けた「危険回避」という知識だけが前面にでてしまい、企業としては素晴しいことをして人生を終えることになる、というように考えると残念で仕方がない。

結局何が言いたいかというと、年功序列の仕組みが無くなってきたとはいえ、今の日本の企業形態では若い間にその溢れる能力を存分に発揮し、自由にそれを活かすことができる場がすくなく、若い才能が開花しないまま事を終えるようになることが多いように思う。

この企業形態が変わるためには、どう考えても半世紀以上の時間がかかるように思う。

だからこそ、優秀な才能を持っていてITに興味があるような若者は、インターネットが大変革起こしている時代を生きている今だからこそ、後世に残るような新しい技術を生み出すことに力を入れて欲しい。

自分に非凡な才能がないからこそ、それを持ち得る人達に是非とも”アメリカの優秀な若者”のような気持ちをもって欲しいのだ。

そして、技術大国日本として「インターネット」という”世界”に、5年後アメリカ以外の国では初めての革新的な技術が日本から生まれることを期待している。

「Googleのような企業が日本から生まれない理由」への4件のフィードバック

  1. 言ってることはすごくよくわかる気がする。

    数年前にインターネットを見たとき、そこに新世界を感じられる人のほうがすごいと思う。つまり、”日本”のような考え方をもつ人のほうが圧倒的に多いだろう。少しネットに詳しい人はここまで来て、たぶん正確にはもう少し進歩してからようやくネット内の新世界に気づいていくのだろう。

    アメリカで成功している企業はこの新世界の考えにいち早く気づいた人がその考えを理解できる人をかき集めた結果だと思う。

    だから、今、日本でこの考えに気づいた人が高いプレゼンテーション能力を持ち合わせることでここから先の日本の新世界でのあり方が変わっていくのではないだろうか。

    なんかうまく言えない感じだけど、、超優秀なプログラマを育成すると同時に新世界の方向へ引っ張る力を持つ人が必要な気がする。無論これは同一人物でもかまわないのだが。。

  2. なるほど、確かにその「考えにきづいた人が高いプレゼンテーション能力を持ち合わせること」っていう考え方は非常に重要に思える。

    けど、日本に古くから根付いている「伝統を大事にする」といったような考えと自分をアピールすることよりも太いものに巻かれる精神が相まって、それが企業とかそういう面にまで表われてくる、っていう所に日本の怖さを感じたりもする。

    これは実際に大きい企業とか病院でもよくある話だし。

    あとは、新しいものの悪い所ばっかりを攻めて、これまでの歴史に裏打ちされたものを優先したがる所にも、インターネットを道具として扱おうとする日本人さみたいなものが表われてる気がする。

    恐らくそれは、今の日本を担っている人達にとっては変えられない根底のような概念だから、そこを否定すると躍起になってその芽を紡ごうとしてくるだろう。

    だから、やっぱり同じ思想を持った優れた人間が自分達で会社をおこして、新たな技術と考え方を確実なものとして証明してからじゃないと、日本のそういう所を変えるのは難しい気がする。

    そうなったとしても、数にものを言わせて責め立ててきそうだけど。

    アメリカのように、素晴しいものは素晴しいものって素直に考えることができるような国になった時に、「新世界の方向へ引っ張る力を持つ人」の力がよち強く影響するようになるんじゃないかと思った。

  3. 伝統を大事にする、という日本のスタイルを変えることはできないし、それも大切なことだと思う。『出る杭は打たれる』というのが一般的な考え方だし、日本人は新しい感覚を受け入れる能力は低いだろう。

    ただ、メディアへの信頼感はとても高い。テレビの情報などは盲目的に信頼する。インターネットの情報ですら怪しむこともなく信頼する。そういうところを利用することで新世界を認めると同時に、世界のインターネットの発展に遅れることを防いでいきたいものだ。

  4. まさにそういう感じだと思うな。

    いい意味では伝統を大事にするってスタイルは素晴しい文化だと思うけど、それが必要の無い場所にまで根付いてきてるように感じる時もある。

    それが、新しいものを受けいれるって所で、邪魔しているようにおもうけど、日本人特有のなんていうか、結局のところ「人がいい」ていう日本人的な部分が、新しいものに対する認識を助けてるようにも思えるね。

コメントは受け付けていません。