生きているということ

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※城崎の情緒あふれる町並み


小さな頃から、生きているってどういうことなのか、ということを兄弟でよく話しあっていた気がします。

自分が自分であること、死んでることと生きていることの違いはなんなのか。

ようやく今になって、生命科学的な意味で納得できた話があったのですよ。

ウィトゲンシュタイン哲学のような意味では、全く理解できていませんが。

生命科学史において、孤独を貫いた天才科学者シェーンハイマーはこう言っています。

「生命は動的平衡にある流れである」

と。


そもそも、生命の定義として有名なものに、

「生命とは自己複製を行うものである」

というものがありました。

しかし、ウィルスなど一切の自身の代謝を行わず、自分のDNAを生物に注入することによって、DNAにかかれた自身を生成するプログラム実行させ、新たな自分を複製していくような振る舞いも、生物である、ということになります。

ウィルスが生物であるかどうかという議論は決着がついていないため、ここでは省略しますね。

ここで、シェーンハイマーはこの定義では十分でないと考えました。

そして、様々な研究を重ね、生命活動におけるおもしろい現象を発見します。

その現象とは、

生物は、絶えずたんぱく質を入れ替えている

ということだったのです。

これは、エントロピー増大の話とも関連があるのですが、物質は常に安定な平衡状態に向かっています。

コーヒーなどでも同じように、濃度の高いところから低いところへ、低いところから高いところへ、そしてその平衡状態が均一になったとき、その移動は終わります。

このように、平衡状態に至ったとき、物質は完全に安定状態とな、その状態から動くことはなくなります。

これは、エントロピー最大の状態といい、活性が止まった状態になります。

人間で例えると、これは「死」ということになりますよね。

つまり、生物の体内でも、たんぱく質は絶えず平衡状態へ、安定した状態へと向かっていきます。

しかし、安定してしまうと、生物の機能が安定となり、停止してしまいます。

だから、生物はなんとかして、その平衡状態にならないようにしようとしますよね。

そこで、外から食事などによって、体内に栄養物を取り込み、たんぱく質に分解し、体内でおきている、「たんぱく質の入れ替え」に抵抗するために、抜けていったたんぱく質の居場所に、新たなたんぱく質をはめていきます。

この流れは絶対に止めることができません。

どんなときでも、たんぱく質は入れ替わりを行います。

つまり、入ってくるたんぱく質がなくても、たんぱく質はでていってしまいます。

このように、平衡状態に向かう体を、外部からの新たなたんぱく質を一時的にはめ込むことで、抗っているわけなのです。

つまりは、食事をとらないことは、栄養学的な問題より、たんぱく質欠損の問題の方が、生死にかかわる重要なファクターになっているわけなのです。

栄養物を貯めて足りなくなったときに補給する、と考えられていた脂肪でさえ、常に入れ替わりが行われており、見かけ上入れかわりが絶えず起きている様が、貯めているように見えるのです。

つまり、栄養が足りなくなってきても、たえず人間は脂肪の大部分を、栄養の補給に使わず、ため続けるのです。

入れ替わりによって抜けた場所が安定してしまい、平衡状態にならないようにするために。

つまり、生命というものは、エントロピー増大によって平衡状態になる物質の使命に抗うために、平衡状態に向かう流れの中に、自分の身をおくことによって、絶えずその流れを発生させる、ということだったのです。

平衡状態になるために、出て行くたんぱく質によってあいた場所に新たなたんぱく質をおくことで、再びその流れを継続させているのです。

つまり、

「生命は動的平衡にある流れである」

なのです。

このように、この世界に自分が存在する以上、その存在は必ずエントロピー最大の状態、つまりは完全な安定状態に向かっています。

そうなってしまうと、物質は不活性な状態となり、もう活動することはできません。

その状態にならないように、その流れに自分の身をおき、流れを絶えず発生させることこそが、自分が存在しているのだ、ということになると思うのです。

しかし、皆さんが考えるとおり、永遠にその流れに抗うことはできないのです。