「The Hacker Ethic」という本を読了した。
ハッカー達の労働倫理とは、金銭自体が価値のあるものだとせずに、自分の活動自体が社会に及ぼす影響、また、自分達が持つ情熱を共有し、共有したもの同士から認められたいと思う、そこに価値があるということだ。
現代、インターネットにおける技術は発達してきているものの、まだ始まったばかりだ。
例えば、科学研究における倫理として、自分の研究をオープンにし、それを参考したり利用したりすることは当然のこととされている。
この感覚が受け入れられるのに、インターネットに関しては、この感覚が受け入れられない。
ここにこそ、インターネットというものに対する価値や理解が不足しているのではないか、と思う。
もはや、インターネットはれっきとした社会であると言っていいだろう。
多くの可能性があるインターネットに対して、探求していくということが、人類が誕生しがあらゆる事象を解明しようとしてきたこととなんら変わりが無い、と理解していかなければならない。
アルフィ・コーンは「競争社会を超えて」や「報酬主義をこえて」で、こう指摘している。
競争や報酬による動機付けというのは、労働を達成する際に、その人間の関心を競争や動機のほうに向けてしまい、それに気をとられるあまり、その労働自体の質が低くなる傾向がある。
また、質の高い労働というものは、労働そのものの面白さに動機付けられたものと。
この指摘は、まさにハッカーの労働倫理の核の部分を指摘している。
そして、この指摘が受け入れられ始めたときに初めて、ハッカーの労働倫理とされていたことが、社会の労働倫理として生まれ変わるのかもしれない。
最後にこう書かれてある。
われわれが、仕事を生きているか余暇をいきているかのどちらかである限り、われわれは本当の意味で生きてさえいない。意味は仕事にも余暇にもない。活動そのものの性質から出てくる。情熱から出てくる。創造性から。
と。
完璧な存在としての神は何もする必要はなかった。
でも、我々人類を創りたいと思ったのだ。
ハッカーにとって、創造性それ自体が価値なのである。
それは、近い将来、ハッカーにとってのみだけでなく、人々が偉業を達成するときには必ず必要となる精神なのだ。