※春にいった京都の久美浜、美しい
最近、科学の本がおもしろい。
人々は、自分が存在する世界がどういうものなのかに興味を持ち、それを解明していくことに喜びを感じるようになってきた。
その喜びこそが科学の本質なんだ、という気がする。
しかし、簡単にその喜びを感じることはできない。
そうやって、人間は試行錯誤して世界を「科学」という名のもとに解明してきた。
科学解明に大きく貢献する考え方を論じた人物に、デカルトがいる。
デカルトは、世界といものは複雑で、それらを全体的な視野から解明し理解することは難しいと考えた。
世界は、個々の振る舞いが相互に複雑に絡みあい、世界というシステムのようなものを構築している。
つまり、そのシステムを理解するためには、システムを構築している個々の振る舞いを、人間が理解できる程度まで細分化し、それらの振る舞いをひとつずつ解明することで、システム全体を理解できるのではないか。
デカルトは、このような考え方を「要素還元論」とした。
この要素還元論によって、様々な物理法則や化学現象が発見・解明され、システムを構築する個々の振る舞いを次々に解決することができた。
そして、今ではヒトゲノムを解明し宇宙の誕生や地球の誕生まで、解明しつつある。
しかし、人々はいまだにそれらを用いて未来を予測することはできていない。
なぜだろうか。
それは、世界というもののミクロな法則(個々の振る舞い)は理解できているが、それらの複雑な絡み合い、システム全体の有機的なつながり、というものを今だに解明できていないからだ。
つまり、人間はミクロの法則を発見し解明することに喜びを感じ、デカルトの要素還元論を信用しきって、個々の振る舞いを解明してきた。
しかし、本当にシステムというものは、そのように細分化することができるのであろうか。
そして、そこにデカルトの要素還元論の落とし穴のようなものがあるのではないか。
もし、デカルトの要素還元理論が世界を理解する上で、もっともな考え方なのであれば、基本法則を解明して応用し、自分たちのために便利な人工物などを作ることができるようになっても、地球が汚染され温暖化が進むことはなかったであろう。
そこに要素還元論の落とし穴のようなものがあったように思う。
人間は、世界を解明する際に、世界というものは個々の振る舞いが複雑に絡み合い、時間的に影響しあい、空間的に作用しているということ忘れていたように思う。
そして、そのことに注目して世界を解明しようとする研究が、今始まっている。
それこそが、「複雑系の科学」なのである。