酷い積ん読↓
他人に「しんどい」ということでも同じようなことを言ったんですが、最近社会に出てこういうことをよく考える。
ここでいう、「しんどい」・「忙しい」というのは、自分があることを行うために、それを普通に行うことはできず、かなり苦しくて苦労する、という意味を含んでいる。
小学校受験・大学受験と、僕の周りの人間はほぼ、その分野の日本最高峰の大学・学部に進学していった。
理系だと、京大の工学部が最低ラインでー、みたいな風潮で僕自身もそう思ってた。
今思うとすごい世界だけどw
進学するためには、当然、みんな何もしなかったわけじゃなくて、本当に努力して。
しかし、不思議なことに、鬼のように勉強してるにも関わらず、誰からも「忙しい」とか「しんどい」って言葉を聞いたことがなかった。
さらには、遊びにいこうってなると、どうにかして遊びにいく時間を作っていたし、それを作れないことの方がむしろ責められるような感じだった。
けど、あの時の周りの努力っていうのは、本当に最高レベルの努力なわけで。
そんな中でも、「忙しい」・「しんどい」という言葉が無かったのは、今思うと本当にすごいなぁと。
本当に、知的レベルに関しては、高レベルな人達に囲まれていたんだなぁと。
その中には、様々な思いがあったかもしれないが、みんなに共通していたものは、
「まだいける」
という気持ちだったように思う。
「しんどい」・「忙しい」といってそれにあわせたら、そこで自分の努力の質を下げることになる、と。
終わってから、あんときしんどかったなぁと言えばいい、と。
やっぱり、できる人に限って、後から「あのときはしんどかったなぁ」とか言っている気がする。
実際に、それをやっている時には、絶対にそんなことは言わないけど。
ようするに、できる(できないわけがない)と思っている人にとっては、達成もしていないのに、「しんどい」・「忙しい」と言うことなんて考えられないのだろう。
「まだいける、まだできる」と思わずに、偉業なんて達成できないのだろう。
こういう気持ちは、病気とかでも一緒で、「自分はもうダメだ」と思ったら、そこでおしまいで、どんどん病状が悪化していくのはよく聞く話だ。
「しんどい」・「忙しい」を言いたいのなら、せめて、
「しんどかった」・「忙しかった」
と言いたい。
そして、その言葉を死ぬ時までとっておけば、その人の人生は、苦しいけど、常に前向きで、その瞬間瞬間で自分を超えていく、そんな有意義なものなのだなぁと、僕は思う。
すごく大変なことだと思うけど。
ああ、こんなこと書いてたら、なんか僕自身が忙しいのかな、と思われるかもしれないけど、全く忙しくないですw
こんなんでいいのかな、と思うくらいなので、時間を自分の行動に投資しながらやっていこうと思ってます。
忙しいって心を亡くすことだけど、心を亡くさずに日々努力を積み重ねている人たちだからこそ成功するんだろうね。
最近忙しいなと心でちょっぴり考えてしまっている今日この頃。反省。
ブルックスは着こんでいい味出して下さい^^
そうですね、忙しいって心を亡くさずにいることが大事なのかもしれません。
ただ、自分が忙しいことを無理して隠す必要はなくて、それが自分にとって本当に忙しいのであれば、言っていいと思うのです。
軽々しく言う言葉ではない、ということだと思います。