※鳥取の日本有数の綺麗な海岸
ある日、僕の研究を指導している教授が、こういう持論を展開していました。
「コンピュータにプログラムで問題を解かせるということは、本来は人間が手書きでその問題を解けないといけない」
という持論だった。
僕は、この意見に対して、「それは違うよね」っと思ったです。
むしろ、コンピュータが普及してきた時代の人であれば、こんなことを言うとは思っても見なかったので、少しびっくりしたのを覚えています。
「自分ができることを、単に時間短縮のためにコンピューターにやってもらう」、という使い方に埋もれてしまって、本来あるべきコンピューターの姿を忘れているな、と。
そもそも、ある問題を解決するときに、「解析的にとける」と、「数値的にとける」という言われ方がされます。
これは、例えば、数学的にある問題を解きたいときに、「この方法を使えば、変数が5個までなら解けるが、6個以上扱おうとすると、何かそれまでとは違う条件を決めない限り、全く正確な解がでなくなる」、といったような問題があるとしますね。
それは、「解析的には解けない」ということになります。
しかし、この問題を限りなく細い計算にわけることでその問題に近似させ、その計算を一つずつコンピューターに処理させ繰り返すことで、変数6個以上でも正確といえる解に近い値を得ることができるとします。
それは、「数値的には解ける」ということになります。
このように、理論的に分かっていたとしても、その解を導き出すことができない状況、つまり、方程式を解くことができないような問題を解くために生まれてきたものが、そもそものコンピューターなのです。
理論(数学:量、構造、変化、空間といったものを対象として、いくつかの仮定から始めて、決められた演繹的推論をすすめることで得られる事実(定理)のみからなる体系を研究する学問)というものは複雑になればなるほど、その瞬間の方向性のようなものは示してくれますが、現実にどのように変化していくかに対する答えは、導き出してくれないのです。
そういったときに、答えを導いてくれるのがコンピューターなのです。
つまりは、先生の言った「コンピュータにプログラムをさせることは、本来は人間が手書きでその問題を解けないといけない」という主張は、とてもじゃないけど、納得できる主張ではなかったのですよ。
それを言うなら、こういう主張であれば、本質はとらえているので、持論としては納得できたかもしれないです。
まだましだ、という程度で全く賛成はできないですけどね。
「人間が手書きでできることは、コンピューターにやらすな」
そうかな?
教授の持論に共感するけど。
彼は学者なのですよ。
>彼は学者なのですよ
だからこその主張のおかしさを述べているのですが?
学者だからなんなのでしょうか。
自分(=人間)でやらないと気がすまない、やるべき、やらないといけない等々、突き詰めていくのが学者だと考えているのではないかな?
と思ったわけです。
いや、コンピューターってのは、「自分でやる」っていうのと、「コンピューターにやってもらう」ってのは、切り離すような話じゃなくて、所詮道具に過ぎない(極端に言うと字を自分でかかずにコンピューターに打ち込むようなもん)んですよね。
だから、コンピューターに計算さすからといって、それは自分でやってないことにはならないと考えます。
学問するのに、当然道具は必要なわけですから。
顕微鏡でしか見えないからといって、自分の目で見ようとしないのと同じように。
そういう意味で、コンピューターの意味を忘れてるのじゃないかってことです。