※本当に綺麗な白浜の夕暮れ
先日、ある人と話をしていたとき、こういうことを言っていた。
「英語を学ぶことによって、なんだか思考の幅が広がった気がするけど、気のせいかなぁ」
これは、非常に興味深い話でした。
思考をするために、言語が使われていて、それが思考の本質であるならば、違う言語を学ぶことで思考の幅が広がるのではないか、と思ったわけです。
そこで、あれこれ調べてみると、こんな記事がありました。
■「言語」なしの思考(1)
■「言語」なしの思考(2)
■言語なしの思考は出来るか
この中で、思考と言語の関係をすごくうまく表現説明している文章があって、「ほー、そこまで単純な話でもないんだな」と思ってしまいました。
「思考言語」について。
「言語と呼ばない方が自然な気がするが、言語と呼びたくなる人が大勢いると言うことの理由はなぜなのだろうか。」という疑問の答は、おそらくこういうことではないだろうか。思考しているときには概念そのものをあやつることはほとんど不可能であるから人間は音声や映像その他の表象が結びついた概念(つまり観念)を運用している。その場合、対象がはっきりとした言語で表現できるものならば当然音声表象のラベル(シニフィアン)を運用する方が運用が楽だし思考内容も明瞭になるので、無自覚のうちに人間は頭のなかで音声表象として再現されたシニフィアンを多用する(その際には言語規範の媒介が必要)ようになる(というより思考をするときには人間は社会的に通用するラベルを習慣的に運用するようになる。
逆にいえば、人間が思考に用いる概念のほとんどはラベル(シニフィアン)がついたものになってしまう)。特に書き言葉に接して読書する機会が多い人間は黙読するという経験を重ねる結果、そういう習慣が自然に身につくであろう。
人間が言語(langue)にしばられてしまっているといわれるのは、このように思考の際に用いる観念が自覚的にせよ無自覚的にせよ言語規範の媒介を受けたシニフィアンと結びついたものに限定されてきてしまうことをいっているのであろう。
そのようなわけで人間の思考はその大部分がシニフィアンと結びついた観念を運用したものになるから、脳内における音声表象のつながりは人間にとっては表現された音声言語の再生と同じように頭の中で聞こえている(現実に声を出しているわけではないが――時には夢中になって無自覚のうちに声に出てしまうこともある)。脳内におけるこの音声表象のつながりが頭の中であたかも自分が言語を話しているかのように思えるために「思考言語」という言い方や「内言」といった言い方がされるのであろう。
つまりは、言語というような規範なしでは、思考というものはありえないというような考えがこれまでの研究でされてきているようですね。
けど、まぁマルクスが言いたかったこととして挙げられていることを考える限り、単純に言語の幅が増えたところで、それに比例して思考の幅が広がるとは、単純に言えないようにも思いますね、やっぱり。
意識と言語とはその形態が違う。心に描いた献立と現実にできあがった料理とが違うように。にもかかわらず言語は意識の現実的・実践的形態なのである。意識が自然の最高の産物(しかしそれを作ったのは人間の社会と人間の意識自身、そして言語である)であるのと同様に、言語は人間社会と人間の意識・肉体が作り上げた最高の産物であろう。つまり、人間の歴史においても個人の歴史においても意識と言語はたがいに作りあっているのである。
意識なしに言語はありえず、言語なしに意識はありえない。マルクスはそういっているのであろう。
思考と言語の関係というものは、その人間自身が相互に作りあげていくもので、言語の幅が広がったとしても、言語の幅が広がることによる、外的な思考の幅の増加、というものはありえないように思うのです。
つまりは、言語の幅が広がったから、思考の幅が広がったのではなくて、言語を学ぶプロセスに、何か人間の思考の本質を表す他の重要な要素があるように思うのです。
結果的には、言語の幅が広がったから、思考の幅が広がった、とも言えるのですが・・・
本質的には、その二つの関係ではないのではないかと、僕は言いたいのですよね。
「言語」なしの思考(2)
前稿「言語なしの思考」に対して秀さんからトラックバックをいただいた。それ(『「ソシュール的な発想」ということで何を言いたかったのか』)について…