カント哲学を読んでいて

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※春にいった舞鶴の在外邦人引き揚げ港、寒い


カント哲学の入門書でありながら、一般的に言う入門書とは思えない、「カント入門」という本を読んでいて思ったことがあります。

カントが言う、「アンチノミー(二律背反)」について、興味深い記述がありました。

アンチノミーというのは、両立することができない命題が同一の事象から生じてしまうことがあり、その相反する命題のペアのことを言います。

肯定命題のことをテーゼ、否定命題をアンチテーゼといいます。

ここで少し興味深いアンチノミーを紹介します。

第一アンチノミー
テーゼ:世界は空間・時間的に始まりを有する。(有限である)
アンチテーゼ:世界は空間・時間的に無限である。

これのテーゼの証明としては簡単に言うと、

「時間的・空間的に無限だとすれば、時間が完結することはなく、どの時点をとっても無限であるはずなのに、私たちは今という時間的に完結した状態で存在しているから有限でる」

であり、アンチテーゼの証明は、

「世界に始まりが存在すれば、始まり以前は空虚な時間が存在することになり、そこから何かが生起することは、考えられないし条件もありえないから無限である」

というような、「反対の不可能性の証明」によって証明されている。

つまりは、この二つが同時に言えることから、この二つの証明は共に偽であることになり、つまりは、世界に、時間的・空間的有限や無限などの大きさなど、存在しないということになってしまう。

これが、カントがいった驚くべき主張のひとつにある。

ここで、この何もない、つまりは「無」っていうものが、この世界に存在するのかっていうことに疑問を感じた。

カントの主張から見たとき、有限である場合、時間的始まりが存在していて、それ以前には空虚な時間があったことになる。

ということは、それこそが、無の存在になると思うのだが、そこから有限なものは生まれ得ない。

つまり、世界が有限である限り、無といものは存在しないことになり、無限であって、初めて無が存在するんじゃないかなぁと思った。

ってことは、無の存在を証明するには、有限でない、つまりは無限であることの証明が必要条件として考えることができるのではないか、と思いまして。

けどまぁ、カントに言わせると無限でも有限でもなく、大きさは無いことになってしまうので、世の中に時間的・空間的な尺度はないってことになりますな、つまり無も存在しないと。

少し哲学書の読み方を分かってきた気がするんですが、なんとなく哲学ってのは、批判したりそれ以上のものを考えたりするのではなくて、その哲学をカントと共有するってところにあるんじゃないかなぁっと思うのですよ。

そもそも、哲学を、ここが間違ってるとか、色々批判すること自体がナンセンスなんじゃないかなと。

そういうのって、ただ、カントの哲学を共有できない、肌に合わない、てとらえるべきだと思うんですよね。

では、もう少し、カント、ウィトゲンシュタイン、ニーチェを紐解いていきたいと思います・・・・

「カント哲学を読んでいて」への1件のフィードバック

  1. 著書「哲学者16人の謎と真実」は、わずか36頁で哲学史の全てが理解でき、ネットで読むことができる。
    http://www.geocities.jp/k_kibino/page2000.html

    ところで、ヒュームの「観念は連合する」に対し、「観念連合には分断もある」と考えるよう提唱する。
    つまり、観念連合に関する3法則、因果・近接・類似の反対に、分断に関する意外・遠隔・相違がある。
    こうすることでヒュームを(カントよりも)相対化し、ブッシュ・小泉時代の新自由主義にも真に引導を渡すことができる。
    http://blogs.yahoo.co.jp/k_kibino/60877061.html

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